『シマザキさん、いらっしゃいます?』
電話越し、初めの一言だけでも品が良いのが分かった。柔らかな女性の声。
へ、と一瞬言葉に詰まったのは、しかしその品の良さに圧倒された訳でも、電話応対に不慣れな訳でもなかった。
(しまざきさん?)
求められた名に、聞き覚えがなかった。
思わずオフィス内のデスクを見渡すけれど、ほんの数人の社員の中にやはり該当者は見当たらず、記憶違いでない事は分かる。
ならば自分の聞き違いだろうか。それとも相手の掛け違い?
「申し訳ございません。確認いたしますが、しまざき、でよろしいですか?」
とりあえず前者の可能性を考え、電話の相手に問い掛ける。
ええ、シマザキさんをお願いします、と変わらず落ち着いた声が答えて、聞き間違いの線も消えた。
ではやはり、相手の掛け間違いだろう。
「あの、」
すみません、と続けようとした時。
トンと軽く、右肩を叩かれた。
(へ?)
振り向けば、後ろに男が立っていた。
タンブラーを片手にしているその人は、一年先輩の社員だった。眼鏡の奥はいつもの飄々とした表情で、でも少しだけ口元を緩めて見せたのは、こちらを安心させる為だろうか。
私(が持った受話器か)と、それから彼自身とを順に指差し、ぱくぱく口を開いた。
(“それ”“おれ”?)
薄く微笑う唇の動きを読み取って、え、と思う。
「っすみません、ただいま」
上擦った声で電話の相手に伝え、受話器を慌てて男に手渡す。
滑らかな動きで受け取ったその人は、やはり滑らかな動きでもう片方の手を顔まで上げ、感謝か謝罪の意を伝えて寄越した。いつの間にか、その手に持っていたタンブラーはデスクの端に置かれている。
「もしもし、お電話替わりました」
相手の言葉に、すぐさま「お久しぶりです」等と笑っているので、女性が用事があって電話をした対象は、本当にこの人なのだろう。
(…しまざき、さん?)
この人が、と、デスクに右手を突いて高い背を少しだけ縮めて話をする先輩を、こっそり見上げた。
ふと、その手が自分のシャツの胸ポケットからペンを取り出すのが見えて、あっと思う。電話機の傍に置いてある小箱から、メモ紙を数枚取り出して、その人の近くに置いた。
「ええ、そうなんですよ。…えーと、去年の秋ですかね」
カチリとしっかりした音を立ててペンの芯を出しながら、ちらりとこちらに視線を寄越す。ありがとう、と言う事なのだろう。それに頷いて応えた。
「はい…ありがとうございます」
流暢な応対を聴きながら、自分の仕事の書類を捲る。横目で見れば、愛用だろう、澄んだ紺色のペンが小さな紙の上をスラスラと走り、
(え)
ふいに、デスクの上をスライドして、こちらにメモが渡された。
(なに?)
何か資料が入用だろうか。
書類か、データ、と浮かしかけた腰は、
(へ)
メモ紙を見て固まった。
『旧姓』
思わず見上げたその人は、もうこちらを見ていなかった。
再びメモに眼を戻すと、さらりと書かれた小綺麗な文字。仕事で使う書類は基本的にパソコンで作成する為、その人が書いた字というものを、思えば見た事が無かった。
(旧姓…)
たった二つの漢字を、何度か繰り返し見て反芻する。
(…あ)
“しまざきさん”、だ。
この人。
ようやく線が繋がって、再びその横顔を見上げた。
愛想の無いオフィスの受話器を持つ左手の、綺麗な長い指の一本で、いつも控えめに光る細身のそれ。
ああ、この人婿養子だったんだ、と思う。
(高瀬さん)
失礼しますと電話を切ったその人は、
「ありがと」
ごめんねビックリさせて、と、電話応対を戸惑わせた事にか旧姓の暴露にか、笑って謝罪して去った。
残ったのは、耳と頭に残った聞き慣れない苗字と、デスクの片隅の、綺麗な文字の書かれた紙切れ。
何となく捨てがたく見つめながら、あの人を婿に迎えた女性は一体どういう人なんだろうと、入社して初めて、高瀬さんの奥さんの事を考えた。
<先輩について知ったひとつ>
高瀬慎吾さん推しです。 妄想が絶えません。
加齢に伴い眼鏡率も上がれば萌えるなぁと思っています。